
滝野優作【プロフィール】
日本のゴルフレジェンド、青木功が長いキャリアを振り返り、フェアウェイでの60年間で見たゴルフの多くの劇的な変化について考えます。

青木功
プロゴルファー。1942年、千葉県我孫子市生まれ。1964年にプロ転向。1983年のハワイオープンで日本人初の米PGAツアー優勝を果たす。通算85勝を挙げ、日本国内ツアーでは5回の賞金王に輝く。2015年には、旭日重光章を受章。
殿堂入りのキャリア
ゴルフ界のレジェンド、青木功は、60年以上のキャリアを経て、今もなお健在です。82歳の彼はもはやプロツアーを回ることはありませんが、ゴルフの普及には依然として重要な存在です。最近では、2016年から4期にわたり務めた日本ゴルフツアー機構(JGTO)の理事を退任しました。JGTOを離れてからは、スポンサーとの交渉やツアーの40大会に出席するために日本各地を飛び回っていた忙しい日々を終え、個人的な活動にもっと時間を割くようになり、リンクで培った古い絆を再び深めることにも時間を費やしています。
6月には、娘とともに10日間のアメリカ旅行をし、ノースカロライナ州のパインハーストで開催された世界ゴルフ殿堂の50周年記念式典に参加しました。2004年に殿堂入りした青木は、PGAツアー時代の旧友たちと再会し、得意の笑顔を見せながら「ジャック(・ニクラウス)は来られなかったけど、リー・トレビノ、ベン・クレンショー、マーク・オメーラと会ってきたよ」と振り返ります。
この旅行には、1980年に自身があと一歩で優勝を逃したUSオープン選手権の観戦も含まれていました。「パインハーストは難しいコースだ」と語り、PGAツアーの常連である松山英樹が6位に入ったことに触れて、「彼は根性のあるプレーを見せてくれた」と称賛しました。

青木功(右)が、2004年12月9日に東京で行われた世界ゴルフ殿堂入りの式典で記念のトロフィーを掲げています。(© 時事)
世界ゴルフ殿堂は、最近フロリダ州のワールドゴルフヴィレッジリゾートからパインハーストに移転しました。1974年に世界中のトッププロゴルファーを称えるために開館され、初の殿堂入りにはアーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、マスターズ・トーナメント共同創設者のボビー・ジョーンズなどの伝説的な選手たちが名を連ねています。青木は、女性ゴルフのレジェンドである樋口久子に続き、殿堂入りした2人目の日本人選手として名を刻み、現在では岡本綾子や“ジャンボ”尾崎将司もその仲間に加わっています。
「ゴルフは私にとって素晴らしいものでした」と青木は語ります。「私はゴルフに恩返しをしたいし、これまで支えてくれた人々にも感謝しています。」彼は、ジュニア選手への長年の支援や、プロアマイベントに参加することを通じて、その経験やノウハウを若い世代に伝える機会を得ています。
語り継がれる物語
青木のホームコースは、千葉県中央部に位置する茂原カントリークラブで、プロとして何時間もゴルフの腕を磨いた場所です。2019年の最も記憶に残るラウンドの一つは、当時のアメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプが日本を公式訪問した際、安倍晋三元首相とともにラウンドを共にしたことです。
80代に入った今も、青木はリンクに立つと競技者としての姿勢を崩しません。「年齢は重ねているかもしれないが、それでも70台でプレーできる。スコアを改善し続けることを決してやめない。」若い頃を振り返ると、ゴルフを始めたのは偶然だったと言います。「若い頃は野球が自分のスポーツだったんだ」と青木は言います。中学校のチームでプレーしており、もし人生が違っていたら高校でも続けていたことでしょう。「中学校最後の年、私たちのチームは県大会の予選で敗退してしまった。」最終回、キャッチャーのミスで相手チームに決勝点を許してしまったのです。この敗北は青木にとって大きなショックでした。「私はあまりにも腹が立って、道具を全部投げ捨てた。そのことで父親と大喧嘩になり、結局、家を出て独立することになった。」
生活費を稼ぐ必要があった青木は、キャディとして働くことに決めました。「キャディならお金を稼げると聞いて、当時、トッププロの林義郎がホームコースとしていた東京富士ゴルフ場で仕事を見つけた。」その後、千葉の我孫子ゴルフクラブに移り、キャディの仕事を続けていました。「プロゴルファーになろうという考えは、全く浮かばなかった。」

青木が語るゴルフの初期の年
青木はゴルフの初期の経験について語ります。 (© 橋野幸範)
1961年、林義郎が日本PGA選手権で優勝したことが青木の視点を変えました。「当時の賞金は少なかった」と青木は言います。「でも、林のような小柄な選手がその金額を手に入れたなら、身長の高い自分なら50万円くらいは問題なく稼げるだろうと思ったんです。今思うと笑ってしまいますが、それがプロ転向の理由でした。」
初めてのプロ資格試験では、青木は1打差でプレー能力テストに落ちてしまいました。千葉から埼玉県の飯能ゴルフクラブに拠点を移し、1964年12月に2回目の試験で合格し、22歳でプロゴルファーになりました。
クラブプロとして働く中で、青木はゴルフ場での給与が倍以上になったと言います。「多くはなかったけど、その年齢では小さな fortune のように感じました。」少ない給料で生活できることに満足していた青木ですが、2年目か3年目に年上のプロゴルファーに声をかけられ、モチベーションの欠如を注意されました。「お前は言うだけで、試合に出ないならプロとは言えないぞ」と言われ、青木はその言葉に刺激を受け、本気で取り組む決意を固め、真剣にトレーニングを始めました。
神奈川県の湯河原カントリークラブに足を運び、施設のマネージャーと練習をさせてもらうことを約束しました。「お金を積んで、使い切るまで練習させてくれと頼んだんです。」と青木は説明します。「1ヶ月後、お金を使い果たしたと思ってマネージャーに言ったら、彼はただ手を振って何も言わなかったんです。」実は、マネージャーは青木の仕事に対する姿勢に感銘を受けていたのです。グリーンキーパーから、若いゴルファーが朝早くからコースを走って回り、リンクに向かう姿が見られることを聞いたマネージャーは、青木が好きなだけ練習できるようにコストを吸収してくれたのでした。「きっとゴルフ場にはかなりの負担をかけたと思いますが、彼の寛大さのおかげで、ゴルフの技術は飛躍的に向上しました。」
プロゴルファーとして7年目を迎えた青木は、1971年に初めての優勝を果たしました。それが関東プロ選手権でした。「キャリアを通じて数々のタイトルを獲得しましたが、間違いなく最初の優勝が一番記憶に残っています。」
ツアーでの力強さ
青木は日本のトッププレーヤーの一人となり、「ジャンボ」尾崎と共に「AO時代」を牽引しました。また、海外でも名を馳せ、ゴルフ界のトップ選手たちと対戦しました。海外への初進出は26歳の時、アジアゴルフサーキットでのことでした。しかし、1973年のブレイクシーズンで6つのタイトルを獲得し、日本PGA選手権を制覇した後、彼はマスターズや他の海外大会に定期的に招待されるようになりました。
青木はその後、数シーズンにわたり主に日本国外でプレーを続けました。この決断は、1978年の世界マッチプレーチャンピオンシップで優勝したことで始まったと言います。「タイトルを獲ったことで、アメリカツアーでも勝てる自信が湧きました。」その自信は翌年、同大会で準優勝した際にさらに強まりました。その後、1980年のUSオープンでの素晴らしいパフォーマンスが続きました。
メジャートーナメントへの2度目の出場となったその大会で、青木はリーダーボードのトップに立ち、最終ラウンドに向けてジャック・ニクラウスと肩を並べました。最終的にはニクラウスにリードを許しましたが、最後のホールまでプレッシャーをかけ続けました。彼の2位フィニッシュは、当時の日本人選手として最も高い成績であり、この大会でのニクラウスとの激闘はその後の大会の歴史に名を刻むこととなりました。
そのわずか3年後の1983年、青木はハワイオープンで優勝し、アメリカツアーの大会で日本人ゴルファーとして初めてタイトルを獲得するという歴史を作りました。

青木は1980年6月17日、USオープンでの準優勝後、東京で行われた記者会見で妻の千恵さんと共に登場しました。(©時事)
プロ入りの決断とは異なり、青木は海外ツアーに参加する決断が金銭的な要因によるものではなかったと強調しています。「1980年代、日本のプロゴルフツアーは最も裕福なツアーの一つでした」と彼は説明します。「スペインのゴルファー、セベ・バレステロスからも、日本で大金を稼げるのにどうしてアメリカツアーでプレーするのかと聞かれたこともあります。」しかし、青木の焦点は大きな報酬にあったわけではありません。「私はパイオニアになりたかったんです。」
しかし、日本と海外イベントを行き来することには多くの挑戦が伴いました。彼は海外への移動の苦労を語ります。「いつも乗り継ぎの飛行機に間に合うように急いでいました。外出先で健康的な食事を維持するのも大変でした。そして、日本のスポンサーに渡航を許可してもらう説得もしなければならなかった。ファンをがっかりさせたくなかったので、いつもトップ10に入ることを目指していました。私を支えたのは、どこでも自分がやり遂げられることを証明したいという気持ちでした。」
ゴルフに恵まれて
日本の若いゴルファーたちに目を向けた青木は、彼の時代のような世界を挑戦する渇望が今のゴルファーたちには見られないと感じています。「ここ10年で国際的な舞台で活躍する非常に優れた日本の選手が増えました」と彼は語ります。「その中で、松山英樹だけが安定した成績を収めています。」
2024年のUSオープンで石川遼をはじめとした日本のトップ選手たちが振るわなかったことを指摘し、アメリカのPGAツアーで日本選手がもっと影響力を持つべきだと嘆きます。「競争の激しいツアーだというのは分かります」と彼は説明します。「でも、私の時代も同じでした。ベストプレーヤーたちに立ち向かうためには、自分のゲームの特定の側面—パッティングやバンカーショットなど—に集中して磨く必要があるんです。しかしそれより重要なのは、正しい心構えを持つことです。大会に出場できたことを自分で褒めて、その後は何も考えずにプレーするだけではいけません。勝ちたいという強い気持ちが必要です。」
自身のキャリアを振り返りながら、青木はゴルフのおかげで富裕層や有名人と触れ合う機会を得たと語ります。アメリカの大統領たち—ジェラルド・フォードからビル・クリントン、ドナルド・トランプまで—との交流もその一つです。「安倍総理がトランプ大統領と一緒にプレーするよう私に頼んだのは、私がプロゴルファーとして成し遂げたことに対する尊敬からでした」と、彼は誇らしげに言います。
「ゴルフは私の天職です」と青木は言います。「私はずっと一人よりも誰かと一緒にいる方が好きでした。そしてゴルフは私に、さまざまな人々と多くを分かち合う機会を与えてくれました。今でもプレーするたびに、ティーショットを打つ前にゴルフを作ってくれた神々に静かに感謝しています。心からの感謝しかありません。」